日経ビジネス6月17日号(1996)

NEC社内起業家の挫折そして再起
北村和彦[ガジェット社長」

夢追い独立、同じ事業で初黒字
花形営業マンから真の経営者へ

NECでトップクラスの営業マンの座を捨て、社内起業化制度に応募。
晴れてNECの起業化第1号として合格するが、失敗、会社を清算する。
夢を捨てず、昨年退社、自らベンチャーを設立する。
初年度は幸先よく利益計上に成功する。
優しすぎる性格を時には鬼にして決断することが,飛躍のカギになる。

 こちらが尋ねるまでもなく,北村和彦は来期の見通しを切り出してきた。「来年度の目標を聞いてくださいよ。売上高は1億円。経常利益は2000万円。堅い数字です」
 創業して初の決算で,北村の経営するガジェットは,売上高3300万円,経常利益200万円(速報値)を確保した。利益を出した充足感からか,柔和な目はいっそう丸い。1年前,NECから”最後通告”を受け取ったときとは,がらりと表情は違う。

清算通告の無念さに男泣き

 1995年1月,北村はやりきれない気持ちで東京・三田にあるNECの本社玄関を出た。近くにあるオフィスに夕方戻ると,無力感でソファにがっくりと腰を落としてしまった。
 「まだできる。これからなのに…。なぜ,自分で決められないのだ」無念さから,涙がこみ上げてくるのを抑えられずにいた。苦労を共にしてきた3人の男性社員が,同じようにソファで涙を流していた。大の男,4人の男泣きはそのまま夜まで続いた。
 その年の4月,北村の会社は2年間の営業活動に終止符を打つ。残務整理を終えた6月には,清算登記をして正式に会社は解散した。

 7月末,北村はNECを退社した。そして8月,新会社を設立。NECの本社近くに,オフィスを置く。
「何十年後には,NECより高い本社ビルを建てることだって無理でない」そんな思いの再出発だった。
 NECの関西支社で大型コンピューターの営業マンだった北村は,92年1月,全社が初めて実施した社内起業家制度に応募する。
 提案した事業内容が有望と認められれば,会社を設立し,自ら社長となって陣頭指揮をとれる。しかも,事業に必要な資金は,NECが1億円まで融資してくれる。こうした魅力もあって,全部で238件の応募があった。
 募集を締め切った2カ月後の92年3月から,審査が始まった。NECの社内ベンチャーとしてふさわしい事業内容か,事業計画に無理はないかがポイントだ。しかも3年たって事業化のメドが立たなければ,会社を清算しなくてはならない。この条件が,後々北村を苦しめるようになるのだが…。

 3回の審査で,最終的に5件の提案が候補として残った。北村は最終段階まで残っただけでなく,記念すべき社内起業家の第1号として認められた。「応募した以上は,もう本社に戻らないと決心していた」
 社内起業家制度は大企業病にかかり冒険しなくなった社員にカツを入れる目的で設けた制度だ。だが、北村の合格は,NECの社員を活性化する代償としては,大きすぎたかもしれない。最盛期には半期で40億〜50億円の営業成績を上げる営業マンが引き抜かれるからだ。
 特に北村が所属する関西支社にとっては死活間題だ。憂慮した関西支社は,「頼むから北村を合格させないでほしい」と,支社長まで動員して社内起業家の事務局に“陳情”に出向いた。
 聞き役は,事務局の責任者である国内販売推進本部長の豊田典男だった。豊田は北村を他社からスカウトした当事者だけに,関西支社の気待ちは痛いほど分かっていた。
 北村はNECの生え抜きではない。以前はイタリアのオリベッティの日本法人,日本オリベッティの社員だった。歩合制の日本オリベッティでは,販売成績に応じて給与が上がる。北村は20代半ばで年収1000万円近く獲得していた。
 北村の辣腕ぶりを聞きつけ,豊田はスカウトに動いたが,北村はすぐに同意しなかった。粘り強く説得し,半年かけてようやく成功した。

 NECに転じた北村は,期待通りの働きをみせた。流通業界の担当だったころは,大阪・船場に集まるスポーツ用品問屋の半分を,他社からNECのコンピューターに置き換えてしまったほどだ。もちろん北村の力だけでは,なし得ない仕事だったが,「50%はあいつの力だ」と当時の上司だった笠原和彦(現アダムス副社長)は言う。笠原はNEC時代,豊田に北村の存在を教えた人物だ。
 そんな経験から社内起業家制度で北村をNECの外に出すことは,豊田自身も熟慮を必要とした。だが最終的に決断する。「コンピュータ一の営業は他の社員でも補えるが,北村が提案した事業は,本人以外はできない」。

早すきたビジネス

 北村が提案した事業とは, パソコン通信を利用したマーケティングの仲介業だ。
 企業から商品開発や販売活動に必要な調査を請け負う。一般消費者を会員化し,企業が希望する調査に合う属性の会員を抽出し,調査を実施する。調査に協力した会員は謝礼を受け取り,企業は一般消費者の生の声を受け取れる。
 企業と消費者の双方にメリットがある仕組みというのが,北村の信念だ。その事業を思いついたのは,日本オリベッティ時代の経験がきっかけだ。
 日本オリベッティで北村は,大阪で中小企業を中心にオフィスコンピューターの営業活動をしていた。顧客の中には婦人服の製造卸をするサミットグループがあった。  「パンフレットを持ってない営業マンだった。」サミットグループ社長の松山貞治郎は,北村をこう振り返る。
 松山が北村と一緒に考えた事業が,個人営業の婦人服店の生き残りだ。VlPカードという会員カードを利用して,大型店に馴染み客を奪われるのを食い止めようとしている。そのために会員には購入金額に応じて商品割引などの特典を与える。唐は客を固定化できるので店と客の双方にメリットがある。
 このサミットでの経験が北村の社内ベンチャーを興した原点になっている。  当初の目論見では,事業開始から3年目で社内ベンチャーは,売上高3億1000万円,経常利益3400万円を見込んでいた。だが,事業開始の1年3カ月後の94年7月から早くも再建話を進めざるを得なくなった。

 事業が軌道に乗らなかった原因の1つは,パソコン通信を使って調査に協力する全員が,20代,30代の層に集中したことだ。
 パソコンの低価格化インターネット・ブームで,今でこそ主婦や中高年層に利用者が拡大しているが,ブーム以前は,利用者は限られていた。一方調査を依頼する企業は,男性,女性に限らず幅広い年齢層を対象にしたいため,ギャップが生じていた。
 しかも人件費の負担がのしかかった。これが清算に陥った直接の原囚かもしれない。社内ベンチャーには北村以外に,関西支社で北村の部下だった3人の男性社員がNECから出向していた。出向社員の給料はNECと同じで,出向先が支払うのが原則だ。
 売上高は伸び悩む中,4人分の人件費を支払い続けなくてはならない。見かねたNECの豊田は,正社員を2人に削減することを提案する。だが,北村は首を縦に振らなかった。
 2人を戻さなかったことに,当時北村は多くの人間から「おまえは甘い」と言われた。しかし北村の意志は固かった。
 「NECの事業ラインを考えれば,2人を戻して業績を回復しても,再び呼び戻せるか保証がなかった」借り入れは8000万円と融資限度の1億円まで2000万円しか残っていない。北村は「あと5000万円を融資してくれれば,うまくいく」と迫った。最終的には2000万円まで引き下げたが,豊田は担当の専務とも話し合い,ついに清算することを決める。94年の暮れに北村と清算の話し合いを始め,年明けに正式決定となった。

 そのころ,全員は1000人近くまでになり,企業の調査も増え始め,上昇の気運があった。だから北村は「もう少し待ってもらえば業績は上向く」と確信していた。しかし,NECの100%子会社である以上,株主の決定には逆らえない。
 「社長でありながら自分の意思、で決定できないことが、最もくやしかった」。北村は振り返る。
 NECからはいろんな方面から復帰を促す言葉があったが,独立して挑戦することを決める。出向していた3人の社員のうち高田克之も北村と共にNECを退社した。  高田にとって北村はNEC時代から事業をするおもしろさを教えてくれた最初の上司だ。高田と2人でNEC所定の退社届に書き込みをしているとき「こんな簡単な項目を書くだけで人生が変わるのか」と感じた。

時には心を鬼に,決断力が分かれ目

 北村と同じくして最初に応募し,社内起業家第2号となったオーセンティック社長の近藤信之は,「励まし合ってきた仲なので,清算したのは非常に残念だった」と語る。近藤の会社は売上高10億円に達し,97年度は累損を一掃する勢いだ。
 オーディオ技術者でありながら不慣れな資材部の仕事をしていた近藤は社内ベンチャーで成功の道を突き進み,一方,花形営業マンの北村は挫折という明暗が最初の起業家制度では生じた。NECは北村の教訓から,その後融資枠を1億5000万円に拡大している。95年8月,北村は新生ガジェットを設立,NECの社内ベンチャーで始めた事業に再度,挑戦する。幸いに初年度で黒字が出たのは「NECの初期投資がなければ,あり得なかった」と北村は感謝している。

 一方で,新しいサービスメニューを開発するなど,収益を拡大する仕組みも生かされている。例えば,フランチャイズ店が仕事をしっかりしているか本部に代わって調査に出かける業務を受託するなど店頭調査を始めた。
 利益が出たことで,目標通り10%配当できることが,北村をもっともほっとさせている。新会社には北村以外に,アダムスの笠原とサミットグループの松山から出資を仰いだが,資本金の過半数は北村が出資し,オーナー経営者としての立場を確保した。
 「過半数の株を待つことは,ベンチャーを興すうえで,当然の必要」。北村から慕われているジンテック会長の内海勝銃は言う。
その内海が北村に対して心配しているのは優しすぎる性格だ。「経営者は時には心を鬼にして決断しなくてはならない場面が出てくる」と内海はいう。

 社内ベンチャー時代の再建話でNEC側が提案した人員削減案に北村が応じなかったのも,優しすぎる性格から決断できなかったのかもしれない だが独立した以上,社内ベンチャー時代と違い,失敗したら後はない。再ぴ,生きるか死ぬかの決断が来たとに,心を鬼にできるかが飛躍のカギになる。=文中敬称

北村和彦 (きたむら・かずひこ)氏
1959年1月14日大阪府生まれ,37歳。81年に同志社大学商学部を卒業後,日本オリベッティに入社。86年にNECに転職。NEC在職中に社内起業家制度に応募し,93年4月に最初の社内ベンチャーとして,ガジェット・インタラクティブの社長としてスタートしたが,95年に清算となる。夢を続けるため,NECを同年7月に退社。自ら資金を集めてガジェットを設立し,同8月から再びオーナー社長として再出発する。 背景に見えるビルはNECの本社。「将来NECをしのぐほどのビジネスに育てることも夢でないかも」と本人は笑う。

NlKKEl BUSlNESS1996年6月17日号